「ヤーアブルニー」 黒髪、黒い瞳のサラセン人の男の言葉に、女は明るい色の瞳を向けた。 「どういう意味?」 瞳を同じ明るい色の髪に、蝋燭の炎の影が踊っている。 「お前が俺を葬る、って意味さ」 いかにも欧州人の女は、形のいい唇で笑った。 「わたしがあなたを殺すわけないでしょ。大きな図体して、なにを言っているの」 「お前がいなけりゃ生きていけねえから、お前の前で死んでしまいたい、って意味さ」 「なによ、それ……」 女は男の太い首に腕を巻きつけた。慣れたしぐさだ。 「わけのわからないこと言ってないで、少しは気を使ったら? あなた、上に乗ると重いのよ」 男は揶揄された太い腕を女の肩に回し、厚い胸に引き寄せた。そのまま、そばの寝台に背中から倒れこむ。 「じゃあ、たまにはお前が上になればいいじゃねえか」 「あら」 女は笑った。 自分から近ける唇から、癖のある甘い香気が混じっている。中東のものがふんだんにあるシチリアでも珍しいニクズク(ナツメグ)だ。そういえば、身体が冷えると言って葡萄酒のお湯割りに他の香辛料と一緒に混ぜて飲んでいた。贅沢な女だ。 ふむ。 男は内心納得した。 ニクズクには媚薬の効果があるからな。 欧州人の彼女には、慣れていない香辛料が強く影響するのだろう。 男の唇に女のそれが重なる。舌が忍びこんでくる。遠慮がちにだが、女がそんな積極性を見えるのは初めてだ。 男は微かに残った葡萄酒の匂いに酔いそうになる。酒には強いはずなのに。 「――わたしも、あなたがいないと生きていけないわ」 女が甘い息とともにささやく。我慢できなくなって、身体を入れ替えて押し倒した。 ナツメグの歴史はあいまいなところが多く、6世紀にアラビア人がコンスタンティノープルへ持ち込んだという説もあるそうですが、確実ではないそうです。 ラテンカトリック、ビザンツ、アラビア文化が溶け込んだ中世シチリアならあってもおかしくはないかな……との妄想の上、書きました。 「ヤーアブルニー」は「翻訳できない世界の言葉」から。アラビア語のフスハー(標準アラビア語)は8世紀ごろに成立し、現在までほとんど変化していないので同じ言葉が当時もあっただろう……とさらに妄想ですが。 当時のシチリアはアラビア人と欧州人が共存していたので、そんなカップルもいたかも、と思ったりしています。 |