シチリア島に来て、青年は狂喜乱舞した。 もちろん、実際に踊りはしなかったけれど。心臓は飛び跳ねた。 彼の地に来た目的を告げると、シチリア在住の学者はすぐ会ってくれた。そしてたくさんの本を見せてくれた。 ユークリッドやプトレマイオスのギリシャ語の本。それだけではない。アル=フワーリズミーほかのアラビアの学術書も負けずにあった。 そりゃそうだ。今の国王ルッジェーロ二世の父が来るまで、この島はアラビア人の場所だったのだから。 おかげでアラビア語の本も多いが、島の周りはサラセン海賊も多い。危なっかしいちゃありゃしない。船には短い間しか乗らなかったけれど、それでもひやひやした。 でも、そのかいはあった。こんなにたくさんの本がここにある。これほどの幸せがあるだろうか。 そんな彼の様子を見て、学者は誇らしげに微笑んだ。 「欧州では見られないだろう?」 学者にして王国の高官、アリスティップス。 名もない学徒である若者には、本来会うこともかなわないであろう相手だ。アラビアや古代ギリシャの学問を志す同志、気安く接してくれていた。 興奮して何度もうなずくと、翻訳したい本はどれでも貸し出してくれると言ってくれた。 迷う。背の高い本棚、と言うより壁そのものが本棚になっている前で、指先があちこちの背表紙の前で迷う。 アリスティップスは辛抱強く待ってくれた。半日近くもかけてようやく選んだのは、プトレマイオスの『アルマゲスト』、コンスタンティノープルから渡って来たギリシャ語版だと故郷で噂を聞いた本だ。 重くて大きな写本を大事に胸に抱えて寄宿している部屋へ帰った。 窓の落とし板を上げて、陽光を取りこむ。眼を細めると同時に乾いた風も吹きこんだ。 いそいそと机の上で表紙を広げた。 眼がギリシャ語を追いかける。これをラテン語に翻訳して、読みたい人みんなが読めるようにしたい。プトレマイオスが終わればユークリッド、その次はプロクロス……。 しかし、どうにも意識が散漫になる。パレルモの街で見た、柑橘類やナツメヤシ――珍しい果物、見たことのない変わった形の茄子とかいう野菜が眼に焼き付いていた。そして色とりどりの布地、しゃれた衣服に身を包んだ人々……。 そして空気は暖かい。南国と言われる故郷サレルノよりも、もっとかぐわしい。 身体を包むぬくもりに、興奮が溶けそうだ。 若者はあくびをした。心地よさが勉学の決心を緩ませる。 我に返って、平手で頬を叩いた。わたしはここへ学問をしに来たのだ。 でも、少しくらいなら気晴らしも……せっかくはるばるシチリアまで来たのだから。 開けっ放しの窓から、そよ風が吹きこむ。頬を撫でる暖かさは甘い花と果実の香りを運んできた。 若者はまたひとつ、あくびをする。 眼の前の写本の文字が、眠気と涙でにじんで見えた。 サレルノの名も残らぬ学徒がたくさんのギリシャ語の本をラテン語に訳した逸話から妄想。 |