「姫さまっ!」 中年女の声が蒼穹を突き破った。 スフォルツァ家の傍系の男はうらうらとしたまどろみから這い上がる。 片目を開けると、漏れ日が瞳を刺した。そして意識が覚醒するにつれ、気づく。近くに誰かがいる。 名目上のミラノ公であるこの城の主は彼の甥だ。事実上の支配者は彼、いつ刺客が現れるかわからない。 ゆっくりと起き上がった。殺気は感じられず、動く気配もなかった。 太陽の光に慣れた眼に映るのは、小さな少女の姿だった。 姫様? はて? 数年前に姪のカテリーナがリアーリオ家に嫁いでから、この城には姫と呼ばれる存在はいないはずだが。 記憶をたぐりながら、立ち上がる。少女は貴族らしい衣装を身に着けており、無礼が許されるとは思えなかった。 そして同時に思い出す。今日はフェラーラのエステ家一家がこちらに来るという話を。 つい一か月ほど前、彼はそこの公女と婚約したのだった。では、彼女はフェラーラ公女に違いない。 少女の前で、埃をはらったばかりの膝をついた。慣れた仕草で彼女は接吻のために手を差し出す。 「初めまして、ベアトリーチェ姫。わたしは――」 「ルドヴィーコさま?」 名前を当てられた男は眼を丸くした。 「よくおわかりで」 少女は柔らかな頬をゆるませる。 「ミラノ公の叔父上は、肌の色に特徴があると聞きましたもの」 ルドヴィーコは『イル・モーロ』(ムーア人。北アフリカのイスラム教徒)と揶揄されるほど色黒だ。そのことを恥じたりはしないが、好意的に見られないこともあるのは知っている。 少女は接吻のために取られた手をそのままに、もう片方の手をルドヴィーコの頬にそっと触れた。 「とても……とても、精悍で素敵だと思いますわ。剣を構えるときっとお似合いです」 白い彼女の手と浅黒い自分の手。 今まで、自分の肌の色を思い知らされるのはあまり愉快ではなかった。でも、目に映る彼女の手と自分の手はとても似合ってると思った。小さな少女の言葉をうれしく思う自分が気恥ずかしい。 彼女が俺の花嫁になるのか。 エステ家に結婚を申し入れた時は、特に感慨はなかった。 傭兵隊長として名高いフェラーラ公エルコレ・デステと姻戚関係を結んでおきたかっただけだった。 心臓が騒ぐ。再来年には三十になる男が、こんな少女にどうしたというのだ。 自分を叱咤するものの、彼女の瞳から眼が離せない。 「あなたのような女性を妻に迎え入れることができて、大変光栄です……」 彼女は笑った。少女らしい、転がるような高い声。 「いつまで手を握っておられるの? 接吻してはくださらないのかしら?」 「これは失礼を」 年に似合わぬ落ち着きに、はるか年上の男のほうがたじろぐ。少しあわてて手の甲に唇を近づけると、 「イザベッラさま! こんなところに!」 先ほど彼の眠りを破った女の声が近づいた。 え? イザベッラ? 確かイザベッラは――。 少女は形のいい唇を、微笑の形を崩さず言う。 「あなたの婚約者は、わたしではありませんわ、ルドヴィーコさま」 ああ……。 では、彼女は俺の婚約者の姉姫なのだ。 踊っていた心臓がたちまち固く沈む。無意識に手を放し、立ち上がった。 呆然と見守るうちに、こんなところで殿方とと言いつのる侍女に連れられて城のほうへ連れて行かれる。 姉姫はすでに輿入れ先が決まっている。俺が最初に申し込んだのはイザベッラだった。でも一カ月前にマントヴァ候との婚約が成立したからと、妹のベアトリーチェと婚約したのだ。 ルドヴィーコは先ほどまで寝転んでいた木の根元に座った。 夫の義務として、妻を愛するつもりではあるが……。 眼の前にある自分の掌を見つめる。ムーア人と人に言われる色黒の自分の肌。 それを彼女は魅力的だと言ってくれた。 ――義務は果たす。 それでも、あの少女が俺の妻ではないことが少し残念だ、とルドヴィーコは空を見上げた。 |